左に掲げた写真、その光景はもう見る事は出来ない。去年に紫陽花に溢れた庭を持つ家が取り壊された記事(前のドメインで書いていたのでもう無いが)を書いたが、その向かいに在る家の一角である。或る休日の朝、朝食用のパンを買いに出た際にこの一角の前を通ったら、それまで在った室外機や消化器や石や紫陽花が撤去され、敷地境界線らしき白線が引かれていた。そしてそれから二月もしないうちにその古い家は取り壊されたのである。
僕はこういった、自分の気に入った一角や道や庭を自分の住む町に幾つも持っている。しかし、今年になってそれらが古いものから順に取り壊されていっているのだ。さすがに道までは無くならないが、寂しいものである。
何故こんなにも残念に思うのか、前々から考えているのだよく解らない。自分が生まれ育った頃に見た家屋の造形に似ていると言えばそうなのだが、例えば玄関や軒先に鉢植えが並んでいるというのは見た事はない気がする。田舎なので家と家の間は離れており、東京の下町のように密集してはいないのだ。何もかもがもっと間延びした感じの空間である。だからそういう空間造形に対する感傷ではないような気がするのだが、もしかしたらもっと比喩的な、凝縮された感傷であるのかも知れない。
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