ところで、「そば屋の風邪薬」というものをご存知だろうか。
 ちょっとした風邪をひいて鼻をグチュグチュいわせていると、どてらをかかえた親父に「おい! 来い」とそば屋に連れていかれる。
 そば屋の壁にはたくさんの薬包みがはられた「そば屋の風邪薬」と大書きされた紙が下げられていて、その一つがもぎとられ、私の手に渡される。しぶっている私に、「おい! のめ!」とちょっとこわい顔をして「かけともり」とそばを注文する。風邪薬を飲んで、熱々のかけをすすり出すと、背中にどてらがかけられる。そんな私を、もりを肴にチビチビとやりながら親父はじっと見つめている。そのかけを食べ終える頃には、額にじっとりと汗がにじむ。
「さ、早く帰って寝ろ! どてらかぶってかけだして行くんだぞ!」
 親父の方は、いつか話し相手をみつけて、お銚子のおかわり。
 この風邪薬、とっても効いた覚えがある。病院の風邪薬ではなくて、そば屋の風邪薬。
 できればそば屋の風邪薬で風邪を治したいと思うのは、中年男のセンチメンタルだと、やはり言われてしまうのだろうか。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.88-89