小学生の頃、ある夏の早朝に、僕は近所に在る草ぼうぼうの空き地で孵化したばかりの蝉を見た。隣地の人家のブロック塀に沿って雑草が高く生い茂っていて、その雑草の一様に真っ白な蝉が止まっていた。そんなものを見たのは初めてだったので、僕はハッとして、畏れながらも目を離す事が出来なかった。見慣れた成虫のカラッとした焦げ茶の蝉とは違い、ふくよかで湿り気を帯びた白い体躯は、異様で、気味が悪く、そうでありながらも何処か神々しく僕の目に映し出された。触れてみたいという欲求は当然芽生えたが、冒しがたいその姿に僕は手を伸ばす事が出来なかった。もし手を伸ばして掴んでしまったら、握りつぶしてしまうのではないかと己を訝った。僕はそのまま其処にしゃがみ込み、小一時間その白い蝉を見つめ続けた。

 そんな事書いてるうちに一つ疑問に思ったのは、小学生の僕が何故早朝に空き地へなんか行ったのかという事。今も昔も、早起きなんて決して好きではないはずなのに、その点がどうしても解せない。

 そしてつられて思い出した事に、恐らく同じ時期に僕はその空き地に自分の宝箱を埋めていた事がある。何故そんな事をしていたのか。当時は狭い借家に家族五人で住んでいて、彼らの目に触れぬ何処かに自分の大事な物を隠す必要があったのだろうか。今となってはその宝が一体何だったのか全く思い出せないが、自分の性格を鑑みると何かしら秘密を持ちたかったのだと思われる。
 その事で記憶に残ってるのは、土砂降りの雨の日に、僕は何故かその空き地で宝箱を掘り返していた。自分の事ではあるが、何の為なのかは知らない。恐らく。自分の宝が其処に存在する事を確かめたかったのだろう。そして、それと同じ理由で、早朝を選んで宝箱の無事を確かめに行った際に白い蝉を見つけたのではないだろうか。ただの空き地に過ぎないが、自宅と小学校、そしてそれを結ぶ通学路のエリアが世界の全てであった僕にとっては、空き地は特別な場所であったのだろうと想像する。