DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: psychology (page 3 of 9)

 彼の《全能性》が狂気の行為に逸脱することなく、この代替世界にとどまりえたのは、その信仰の篤さに与る部分が大きかったといえよう。天使と、狂信的な独裁者の両面をもつ少年がつくった世界が、今我々の心を治療するのは、ダーガー自身が描くことで体験した、妄執を浄化するよどみないイメージ化の過程、イメージとの交感の瞬間を我々が追体験するからである。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 p.159

 アウトサイダー・アートと呼ばれる作品の多くはセルフトート(独学)や精神障害者らによるものを指す。画廊などできちんと発表せず、自宅にかかえこんでいたりするいわゆる《引きこもり》タイプの制作者もこれらに入れられることが多い。
 すべてに共通するわけではないが、特に精神障害者や幻覚を見るタイプの人に多いのは、オブセッシヴ(脅迫観念的)な繰り返しの表現や、自分が語る壮大な妄想の物語、世界の創造主たらんとする細部にいたるまでの世界の作り込みである。その作品には日記とも物語の断片ともつかぬ細かな文字がイメージとともに書き込まれていることも多く、あるいは、写真や印刷物、周囲のものを集めてくるプリコラージュ的な手法によるコラージュ、オブジェなども多い。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 p.151

人は変わったりしないのかも知れない。

 人は先天的にある性格的傾向を持って生まれてくる、と僕は考えている。そしてその傾向は、その人の人生と言って大袈裟なら生活に於いて、良くも悪くも働く。と僕は考える。

 とある人がその性格的傾向に因って、大なり小なりの対人的な不具合を若い時に感じるとする。本人が感じるくらいなので周囲の人々も重々そう感じていて、それがその人の一定の評価となる。これはその人の性格的傾向が悪い方向に働いた結果である。
 それから年月を経て、成長する過程で社会的に揉まれる内に、その人は己の性格的傾向が招く不具合を解消すべくバランスを取るようになる。周囲から度々非難されたりして当人も色々悩んでいる内に、徐々に獲得して行った処世術のようなものであるのだろう。そう考えると、これは人が変容したのではなく、それまで自分の裡になかった要素を重りのように付け加えて行って、それでヤジロベエのようにバランスを取っているだけのように思える。社会的にはそれで充分であるだろう。しかしこのバランスが崩れる時が、生活している中で往々にして訪れるものなのだ。
 例えば、深く酩酊した時や、病気や何かで自分自身を巧く扱えない時、年老いて自由が効かなくなった時もそうであるようだ。酩酊した場合は妙に開放的になった場合と、泥酔してどうにもならない状態になった時では状況は違うが、いずれの場合も出る。不自由な状態を強いられ余裕がなくなったり外的ストレスが感じられなくなると、幼少の頃には他者に対して通じたのであろう態度や方法で自分の欲求を果たそうとする。近年感じるのは、気心の知れた人達しか居ない空間でも外的ストレスが激減するようで、非常に子供じみた態度をとる人が居る。現実空間ではなかなかそういう状況にはならないが、クローズドなネット空間では顕著である気がする。何処であろうが相手が誰であろうが、歳を取ってくればある程度の社会性は維持するべきだしそのようなものだとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしい。全員がそうなる訳でもないが、中にはとんでもなく非常識な言動や行動を嬉々としてやらかす。この「嬉々として」というのが非常に厄介である。本人には何の悪気もなく、楽しそうに露悪的な態度を示すのだ。

 以上のような光景を目の当たりにすると、人というのは己の偏った欲求や底意地の悪さを根底に抱えつつ、身に付けた社会性でどうにか穏便に世間と関わりながらも、機会が在り次第己の残酷さを発揮しようと虎視眈々としながら生きているのではないかと思えてきて、少し絶望的な気分になる。そこに作為が在るという訳ではなく、自分では抑える事の出来ない、どうしようもない欲望を如何にすべきか知らないという点で。

求めるもの

 昔、通っていた小学校隣の寺の参道の脇に当学校生徒目当ての駄菓子屋が在った。参道の砂利道から右へ逸れる石段が在り、その先に木板の壁の小さな家屋が建っていた。入口にはガラスがはめ込まれた木製格子の引き戸が在り、それを開けると狭い店内に様々な駄菓子が所狭しと並べてあって、その奥に店主である老婆が鎮座していた。右側には簡素で狭い座敷が設けられていて、そこで子供達が飲み食い出来るようになっていた。僕らはなけなしの小遣いを握りしめ、毎日のようにその店で買い食いをしていた。
 そして僕が高学年に上がった頃の或る夕方、僕は寺へ向かってその参道を歩いていた。恐らく友達と境内で遊ぶ約束でもしていたのであろう。すると、駄菓子屋へ登る石段の脇に転がっている大きな岩の上に小さな男の子が座っていた。制服を着ていたので(小学校に制服はなかった)、かつて僕も通っていた小学校の隣の保育園に通う子だと思う。その男の子は片手にジュースの瓶、もう片方の手には菓子パンを握ってた。身体の小さな幼児であるが故、それらを落とさないように手に「持つ」というより「握りしめている」という印象があった。そして彼は瓶の飲み口を自分の唇にあてがい、ごくごくとジュースを呷って飲み干した後に、大人が仕事後の最初の麦酒を一口飲んだ後に漏らす溜息のように「はぁ〜あ」と一息ついた。よほど美味しかったのだろう。念願の一本だったのだろう。彼はとても嬉しそうだった。
 その光景を見ていた僕は何とも言えない気分になった。切ないというか何というか、とにかく説明の出来ない感情に襲われたのである。当時はもちろんの事、今でもそれを巧く説明する事は出来ない。自分よりもずっと若年の存在であったから保護者的な気分になったのかも知れないと考えもしたが、当時は自分も保護を必要とする存在でしかなかったし、知らない子なので何の思い入れもない。何かしらの努力の末に望んだものを手に入れた物語に対する感動なのかとも考えたが、僕はそんな事情はまったく知らないし、当時の僕がそんな感覚を持っていたのかは甚だ怪しい。僕がその時に感じたソレが、一体何だったのか解らないままここまで来た。実に不思議な気分である。

 ★

 それから20年後、或る夜僕は池袋のシェイキーズに居た。当時の恋人と一緒に遊んだ後、夜になってハラも減ったのでピザでも食べようとその店に入ったのだ。その時僕らの隣のテーブルに20代半ばと思しき太った女性が座っていて、ピザを美味しそうに頬張っていた。その姿を見た僕は、そこでまた溜まらない気分になってしまって、それ以降その女性の事が気になって仕方が無くなってしまった。彼女の満面の笑みや、ピザを口へと運ぶうやうやしい仕草を見て僕は、普段生活費がカツカツで週末に大好きなピザを食べるのを唯一の楽しみとして生きている人なのだろうか、とか。普段はダイエットに勤しんでいるがとうとう抑えきれずに食べに来たのだろうか、とか。結構失礼な事を考えていたと思う。しかしそれと同時に、向かいの席に座る恋人にその事を話す気持ちの余裕は微塵もなく、見てはいけないものを見てしまった、或いは決して邪魔をしてはいけない、そんな事を考えながら胸が締め付けられる思いに堪えていた。

 書けば何か解るかも知れないと思って書き始めたこの記事だが、やっぱりよく解らない。人間の希求に対する自分の反応の仕方なのかなとも考えたが、サンプルが少ないせいかどうにも腑に落ちないし、そんな曖昧な自分の感覚は信用ならない。相も変わらず、そういう自分自身に対する疑問を抱えながら生きて行くしかないのだろう。

人と病

 先日、本屋(実際にはアマゾン)でふと目に止まった、水島広子著『「拒食症」「過食症」の正しい治し方と知識』という本を読んでみた。何故そんな事を思い付いたのかというと、これまでの人生で何人か、拒食症または過食症ではないだろうかと思われる人と僅かながらも付き合いがあったからだが、その時の己の態度に対する反省から、少しでも知っておきたいと思ったからである。その中で気づいた事を二三記す。

 ひとつには、本書は患者のみならずその家族や周囲の人々に読まれるように書かれている。その中で(そうなりがちではあるが)こういったアドバイスや言動は患者にとっては逆効果だ、という事例が幾つか挙げられているが、そのどれもを僕はかつての知人達に言ってしまっていた。しょっちゅう顔を合わせるような深い付き合いではなかったので、尋常とは思えない相手の様子に驚いてつい口に出してしまうのだけれど、確かに無知であった。
 摂食障害の専門医は今を持っても少ないとある。となれば適切な治療方法や、周囲の協力の仕方などに関して知識を持つ人を身の回りに探してもなかなか見つからないだろう。アマゾンでも推されているようなので、この分野に興味を持つ人には手に取りやすくなっているとは思う。しかしそれだけでは全然間に合わないように思う。問題に直面した人が全員、積極的に知識を得ようと書籍を紐解くとは思えない。どちらかと言えば少ないのではないだろうか。患者本人だけでなく周囲の人達にしても、なかなか認めたがらないような気がする。認知する際のストレスを出来るだけ少なくしようと思ったら、例えば摂食障害をテーマにしたテレビドラマを制作して、単発ではなく一定期間をかけて放送するとか、そういう方法が必要ではないだろうか。民放では難しいだろうから NHK で。

 もうひとつは、この本は基本的には患者の不安や心情に寄り添った形で書かれていて、折に触れては周囲の人達が知っておくべき事柄や心構えなどについて書かれている。しかし、周囲の人達に寄り添った記述が足りないように思う。知識も経験も無い人間に、或る日言い渡された通りの対応が出来るようにはなれないと思われる。本書にも触れられているが、患者と共に周囲の人達も自分を見つめ直し、徐々に成長していかなければならないのだろうから。なので別冊にて、今度は周囲の人達に寄り添った形での本があれば良いのではないだろうか。本書を読めば読むほど、患者独りではどうする事も出来ない病気であるように思えるし、医者に任せていればどうにかなるものでもないようだし、周囲の人達の、もっと言えば社会の認知が必要であるように思える。その為にもそういう本は必要ではないだろうか。

 いずれにしても、浅はかな考えであるかも知れない。広く知らしめるという事は、それだけ患者のデリケートな心情を晒してしまう事になりかねないとも考えられる。本書でも、随所に患者へ対する気遣いが窺える。

 最後に、本書でとても気になる記述があったのでそれを引用する。

 私は摂食障害の患者さんを見ると、まるで一家の問題を代表するような形で病気になっていると感じることが少なくありません。ある意味では、もっとも感受性が豊かで、もっとも家族思いの人が、摂食障害になっているのです。
 それを「家族の犠牲者」として見ることも簡単ですが、それ以上の意味があると思います。最も感受性が豊かで、最も家族思いの人は、病気になることによって、家族関係のバランスを変え、やはり家族のためになる結果を出すのだと思うのです。

 そうだとすると、これはもはやシャーマンではないか。これは摂食障害には限らない話のように思う。病という事象に対して、単に悪しきものだという考えを改めなければならないのかも知れない。

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