人は先天的にある性格的傾向を持って生まれてくる、と僕は考えている。そしてその傾向は、その人の人生と言って大袈裟なら生活に於いて、良くも悪くも働く。と僕は考える。

 とある人がその性格的傾向に因って、大なり小なりの対人的な不具合を若い時に感じるとする。本人が感じるくらいなので周囲の人々も重々そう感じていて、それがその人の一定の評価となる。これはその人の性格的傾向が悪い方向に働いた結果である。
 それから年月を経て、成長する過程で社会的に揉まれる内に、その人は己の性格的傾向が招く不具合を解消すべくバランスを取るようになる。周囲から度々非難されたりして当人も色々悩んでいる内に、徐々に獲得して行った処世術のようなものであるのだろう。そう考えると、これは人が変容したのではなく、それまで自分の裡になかった要素を重りのように付け加えて行って、それでヤジロベエのようにバランスを取っているだけのように思える。社会的にはそれで充分であるだろう。しかしこのバランスが崩れる時が、生活している中で往々にして訪れるものなのだ。
 例えば、深く酩酊した時や、病気や何かで自分自身を巧く扱えない時、年老いて自由が効かなくなった時もそうであるようだ。酩酊した場合は妙に開放的になった場合と、泥酔してどうにもならない状態になった時では状況は違うが、いずれの場合も出る。不自由な状態を強いられ余裕がなくなったり外的ストレスが感じられなくなると、幼少の頃には他者に対して通じたのであろう態度や方法で自分の欲求を果たそうとする。近年感じるのは、気心の知れた人達しか居ない空間でも外的ストレスが激減するようで、非常に子供じみた態度をとる人が居る。現実空間ではなかなかそういう状況にはならないが、クローズドなネット空間では顕著である気がする。何処であろうが相手が誰であろうが、歳を取ってくればある程度の社会性は維持するべきだしそのようなものだとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしい。全員がそうなる訳でもないが、中にはとんでもなく非常識な言動や行動を嬉々としてやらかす。この「嬉々として」というのが非常に厄介である。本人には何の悪気もなく、楽しそうに露悪的な態度を示すのだ。

 以上のような光景を目の当たりにすると、人というのは己の偏った欲求や底意地の悪さを根底に抱えつつ、身に付けた社会性でどうにか穏便に世間と関わりながらも、機会が在り次第己の残酷さを発揮しようと虎視眈々としながら生きているのではないかと思えてきて、少し絶望的な気分になる。そこに作為が在るという訳ではなく、自分では抑える事の出来ない、どうしようもない欲望を如何にすべきか知らないという点で。