文学のような文字メディアが現実認識に対する主要な媒体であった時代には、例えば主人公の人格形成の遍歴を扱う小説のような形式が、読者に人生の予行練習としての経験の先取りを与えていたのでしょう。しかし、ビジュアル・イメージが支配的なメディアの形式となると、現実認識に対するバイアスは、概念からイメージへと変化します。
 近代以降の知的枠組みでは、概念・表現と事物・対象との対応や一致が、諸学問および芸術の判断基準となってきました。現実の再現というリアリズムの束縛から一歩踏み出たかに見える印象派のような絵画が、知覚的経験の再現という解説を付される背景には、このような判断基準の働きがあります。
 それは、科学的知識が信頼に足るのは経験的検証を経ているからであるということと、基本的には同一の考え方と言ってもいいでしょう。それは、概念・表現と事物・対象との対応が経験による審判によって正当化されるという枠組みです。
 しかし、概念と事物ではなく、イメージと事物が現実認識を生成する主要なモードであるとすれば、それらは相対的な二項としてあるため、現実についての真偽や善悪に関する命題も相対的なものにならざるを得ません。イメージと事物の対応が経験的知覚によって検証されると言うこともできなければ、どちらか一方を他方に基礎づけることもできないでしょう。そうすると、対象や事物と呼ぶべきものの位置づけも曖昧になります。
 対応および一致の検証という論理的作業のきっかけを失ったとき、経験的知覚そのもののなかには、イメージと事物を分け隔てる物質的要素の有無を知る手がかりもなければ、それを知る必要も感じないからです。
 私たちが直面している生の条件とは、このようなイメージの専制とでも呼ぶべき、現実性=虚構性の等式が成り立つ一元的な世界なのです。

吉井仁実著『現代アートバブル いま、何が起きているのか』光文社新書 2008年 pp.57-58