家族の機能強化を狙った日本型福祉社会論は、時代の流れに逆行し、挫折したものとして批判されることが多い。しかし、ケア労働が国家からアウトソースされた先が、地域福祉を担う主婦パート層であったことを考えると、それは、「サラリーマン/専業主婦」体制を揺るがすことなくケア労働を社会化し、社会保障費の抑制という当初の目的を達成したという点で、ある程度の成功をおさめたといえるだろう。家族だけに話をとどめず、地域社会にまで目を向けると、低賃金なケア労働を地域の主婦層が担うという構図は、基本的には日本型福祉社会論の目指すところでもあった。
 このことは、1976年に策定された日本型社会福祉論の「原点」である「昭和50年代前期経済計画」をみると一層はっきりする。君島昌志によると、この計画で描かれている国民の福祉の向上は、政府によって実現されるものではなく、個人、家庭、企業の役割や社会的、地域連帯感に基づく相互扶助によって達成されるものであった。(「福祉政策の転換に関する考察(1)『島根女子短期大学紀要』35号)。日本型社会福祉論の主な目的が家族の機能の強化にあったことは確かであるが、地域社会の役割にも期待がかけれらていた。そう考えると、家族のなかの主婦の役割が弱くなったからといって、日本型社会福祉論を失敗したものとして結論づけるのは早計であろう。主婦パートが担うケア労働の社会化は、十分に日本型社会福祉論の枠内で語りうるものである。
 その象徴が、主婦層を積極的にケア労働化してきた生協系の社会福祉法人であった。生活クラブ系の生協は、「共助」の理念のもと、介護保険施行以前の早い時期から事業のなかに福祉関連事業を取り入れてきた。「共助」の理念とは、いわゆる「アソシエーション」に仮託された理念であり、そこで目指されるのは、旧来の官僚制的なシステムのなかでは満たされなかったニーズの充足と新しい働き方であった。
 そして、その理念を担ったのは、組合員の女性、すなわち主婦層であった。「現代フェミニズムと日本の社会政策」(『女性学と政治実践』勁草書房)で「主婦フェミニズム」を批判した塩田咲子によると、1980年代とは同じ被扶養の主婦でありながら、リッチで時間を持て余している主婦、主婦の座を逆手にとって多様な社会参加をする主婦、趣味や実益をかねて働く主婦など、主婦の多様化が進展した時代であった。そのなかで、主婦のケア労働は家庭での労働から地域での労働へと移り変わったのである。
 すなわち、ケア労働とは、そもそも女性の、それも主婦のパート労働であり、その背後には、その主婦を扶養する配偶者がいることが前提とされていた。塩田によれば、1975年以降急増した主婦パートタイマーは、その70%が被扶養型の共働き世帯であった。それは社会政策上は専業主婦帯であり、性別役割分業の基盤でもあった。「会社に系列化された家族」のなかの被扶養者である主婦が担うケア労働。つまり、誤解を恐れずに言えば、この意味で、ケアの職場とは、労働者が独り立ちするための収入を得ることのできる、一般的な意味での「職場」などではなく、家庭の延長線上にある、理念先行型の「疑似職場」とでも呼ぶべきものであったと考えられる。

阿部真大著『働きすぎる若者たち〜「自分探し」の果てに〜』生活人新書 2007年 pp.68-71