部屋中の窓を開け放ち、蚊取り線香の煙を漂わせながら、先ほどからぼんやりと外を眺めていたのだが、少し離れた場所び立つ街灯の周りを蝉が飛び回っている。飛び回っているというより、街灯を中心として彼方此方に体当たりしながら悶え飛んでいるという方が正確かも知れない。時折蝉は「みみっ」と鳴きながらバシバシと衝突音をたてる。その衝撃を受け続け間もなく息絶えるのではないかと思い、何となく目が離せないでいる。

 数日前から天候の崩れと共に気温が下がり、東京の空は心許ない秋の気配を漂わせている。気温で言えばたかだか2・3度下がっただけの事なのだが夏の陰りは隠しようもない。いずれ近いうちに東京は次の季節を全面的に受け容れ、人々は暮らしを見つめ直す日々が訪れるのだろう。

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 また一つ歳を取り、人生の節目である事から髭を蓄える事にした。実を言えば何年も前から、連休の間に伸びた己の髭面を眺めて「もしかしたらイケるんじゃないか」と思ってはいたのだけれど、習慣を変える事に対して腰の重い僕はなかなか実行に移す気になれないでいた。しかも、帰省した折りに無精面を見せながら母に「髭ば伸ばそうち思いよるとばってん、どげんやろか?」と尋ねたところ「浮浪者んごとして気持ちん悪か」と、それでも母親かと思うような酷い言葉を浴びせられて以来諦めていたのだが、いつまでも母の言いなりになっているのも腹立たしいので実行する事にした。
 スタイルとしては、口髭は生やさずにもみあげから顎にかけて繋がっているような感じ。自分でで見て汚い印象は受けないので大丈夫だと思うのだけれど、周囲の人達は何も言ってくれないのでよく判らない。まあ、暫くは続けてみるか。

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 気がつけば、街灯の光と格闘していた蝉は居なくなっていた。果たして彼は死んだのだろうか、それとも飛び去ってしまったのだろうか。